男子中学2年生 6月の憂い

言葉に敏感になって、

それが過剰な 自分への認証となって

本人の胸のうちに響く


一般の中流家庭に生まれ育ち

クラスでの成績も上位にあって

部活やクラス委員にも 立候補して

それでも


いい子で 居続けることは、少しずつ

本人のなかで、負担となって蓄積していったのだろうか


演技をすること、失敗はしていけない

自分のなかで、親の期待を裏切ることは

許されないことなんだろうから

父親に相談したくても、一緒に過ごす時間もない

日々、仕事や付き合いで帰りが遅くて

疲れた顔をみて、さらに疲れさせる相談なんてできない。


期待していることに 応えられていた自分は まだよかった

でも、いまは 違った自分が ここにいる


1つ目に そんな自分が許せない

2つ目に 自分に死ねという 周りにも ・・・・

提出物さえも 約束通りに出せていない自分は

どうすればいいだろう

・・・・・・ (本人の遺書めいたメモから)



男子中学生の2年生 6月頃は、 そういう葛藤にかられる時季だと

尾木ママは、意見していました(ミヤネさんの番組)

それを、聞いてあげて 認めてあげる事が

先生たちや 親がしてあげることだという アドバイスがつづいた。


担任の女性教師も、カメラ無しのマスコミ会見にのぞんだ

ことの経緯は分からない。

「マスコミの記事表現も、またさまざまになるだろう。

そしてそれを、知ったひとも

解釈はさまざまになるだろう」と・・・担任教師のことばから、

 ある意味、自己弁護の冷めた感覚に思える。


さらに、続く 正当性の主張と受け取れる


「子供たちのあいだでは

 死ね > うざい >キモいが 挨拶代わりになっている」

それを、せいいっぱい注意して、子供たちに言い聞かせてきたという。

学校の秩序、社会の秩序を教えていくこと

それを体現していくことを指導する、これは教師の役割でもある。


たしかに、コミュニケーション手段の激変は

社会的な現実として否定できない

ネット社会、裏掲示板、ツイッター、LINE  

陰湿な 他人評価 仲間はずし・・・・擬似的な同質の仲間意識を

醸成させていく。


異なる考えや、違った価値観があって

それを意見することで、それぞれの子供は成長していく

意見がぶつかることはあってもいい

それでも、人格を否定するようなことがあってはならない

なおさら、本人のいないところで、陰口をいうことは陰湿で悪質ともいえる


単一民族国家で 同一の言語をつかう国民

アジアの片隅の この日本では 

若者たちが、どんどん内側に向かっていっているような印象を受ける。

・・・・もっと

学校や、学習塾、部活などに 過剰に依存せずに

家庭のなかで、地域社会のなかで 子どもたちを育成していく

ことが重要になってきていると感じる



実際に、職業がら体験的に思えることとして

「自立心」が なりをひそめて

「依存心」「責任転嫁」が強まっていることは

企業人事をやっていても、わたしも感じることであるから。